「えひめ丸」事故から20年。「冷たい水の中にずっと居たのです。どうしても抱いてあげたい。」
社長の一言 2021年2月13日
ハワイ沖で2001年、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が米原子力潜水艦グリーンビルに衝突され9人が死亡した事故から20年が経ちました。
あの日、私はアラモアナにいました。愛媛県の親戚から電話があり、「えひめ丸が事故にあったらしい。至急調べてほしい。」と緊迫した声で携帯電話に連絡があったことを今でも鮮明に覚えています。誰よりも早い一報でした。親戚は宇和島水産高校に勤務しており、その関係で私の長男はえひめ丸の生徒たちと事故の前日に夕食を共にしていました。
それから、通訳としての怒涛の日々が始まったのです。
在ホノルル総領事館からの連絡、読売新聞や各テレビ局からの依頼、アメリカ海軍やハワイ州からの問い合わせ。
ホノルル総領事館の領事からは、「通訳中は絶対に泣かないでください。」「ご遺体を運ぶとは言わないように。人として扱うように言葉に気をつけてください。」と言われました。海軍基地に赴くと、ご家族が憔悴された顔で待たれていました。息子やご主人の生死の確認が取れないままハワイに急遽飛んで来られ、英語での日々を強いられ、通訳がきたことでホッとされたのでしょうか。その場で泣き始めるお母様もいらっしゃいました。
同年代の息子を持つ身として、心が痛くどうしても涙が溢れそうな時は、太ももを思いっきりつねりながら正確な言葉を探しながら、精一杯自分が出来ることを果たし、自宅に帰ると堪えきれず号泣したことも幾夜となくありました。海軍のオフィスの壁には亡くなられた先生の子供が描いた「大好きなお父さんの絵」が飾ってありました。
「結婚指輪をどうしても探してください。」海軍の潜水士達は視界の悪い海中で、懸命に船中を探し周り奥様に大事な指輪をお渡しする事ができました。行方不明の生徒さんのご家族はとても謙遜で、慎ましく、そして一生懸命子供の生還を待っていらっしいました。その姿に私自身がどれだけ目頭が熱くなり、そして勇気づけられた事でしょう。
ご遺体が見つかったとき、海底で長い間眠っていた我が子やご主人を皆、抱きしめてあげたいと言われました。ホノルルの検視官は、「お元気な姿のまま覚えていた方が良いのでは」とアドバイスされましたが、「いいえ、冷たい水の中にずっと居たのです。どうしても抱いてあげたい。温めてあげたい」を請われたのです。私の太ももは青あざでいっぱいになるぐらい深い悲しみ、感動、そして温かい愛を感じた日々でした。
ご家族がホノルル空港(当時)を出発される時は、海軍関係者が真っ白の正装を着用し、敬礼をして見送ったと聞いています。事故後の被害者の支援などで愛媛県とハワイ州は2004年に姉妹提携を締結しました。えひめ丸記念碑はアラモアナに近いカカアコ・ウォーター・フロントパーク内にあります。事故が風化しないように、これからも双方の交流は続けてほしいと心から願い、可能な限りハワイへ修学旅行や研修旅行で来た生徒たちを案内させてもらっています。通訳として、そして教育支援団体として、えひめ丸で亡くなった生徒や先生のために、支援していきたいと思っています。
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